日本比較文学会東北支部のページ

日本比較文学会の東北支部活動について情報発信して参ります。

[研究発表]要旨①

美女と野獣」の話型からみる『紅の豚』 

                   田中理紗(東北大学大学院博士後期課程)


 「美女と野獣」型の物語には大きく二つのタイプがあり、まず一方には18世紀フランスのヴィルヌーヴ夫人およびボーモン夫人のテクストに基づく「美女と野獣」の翻案作品(絵本、実写映画、ディズニー、ミュージカル)がある。他方で、より広い意味で「美女と野獣」の類型といえる物語群があり、それは古代ギリシャにさかのぼり、現在もいろいろなメディアで存在している。
 後者のタイプにあたる「美女と野獣」の話型を取り入れた作品の中には、「野獣が元の人間の姿に戻り美女と結ばれる」というハッピーエンドとは異なる結末の作品も存在する。その一つが、長編アニメーション映画『紅の豚』(宮崎駿、1992)である。『紅の豚』には、「美女と野獣」のテーマである「野獣が美女から愛されることで元の人間の姿に戻る」という構図がありつつも、呪いが解けたのか、美女と結ばれたのかは曖昧にされている。また、そこに戦争体験のトラウマが「人間の愛」によって癒されるというモチーフが加えられている。
 本発表では、「美女と野獣」のテーマがどのように活用されているのかに注目することで、現代文化におけるおとぎ話「美女と野獣」の変遷の一端を明らかにしたい。

[研究発表]要旨②

ヴァルター・カレと漱石 共鳴する孤独 ―『行人』のドイツ語句をめぐって―

                               飛ヶ谷美穂子


 夏目漱石『行人』の「塵労」(三十六)の中に、主人公一郎とその友人Hが旅先の修善寺の山中で、「Keine Brücke führt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)」「Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit!(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)」というドイツ語のやりとりを交わす場面がある。このうち後者はニーチェツァラトゥストラ』第三部を出典とすることが夙に知られているが、前者については作中「独逸の諺」とあるにもかかわらず該当することわざは確認されず、典拠未詳とされてきた。
 論者はさきに2014年度全国大会において、この問題について口頭発表を行い、1910~1920年頃すなわち第一次大戦前後のドイツでは、文学・社会学・哲学などさまざまな分野にこの語句の用例が確認でき、さらにその背景として、ヴァルター・カレWalter Calé(1881-1904)という夭折詩人の存在があることを指摘した。
 今回の発表では、その後入手した資料と作品の分析をもとに、カレに関する同時代評なども参照しつつ、問題の詩句がどのように受容され伝播されたかを検証し、漱石が直接カレの遺稿集Nachgelassene Schriften (1907)を読んだ可能性は低いにもかかわらず、この語句を『行人』に用いたことの意味を探りたい。併せてマックス・フリッシュアイゼン=ケーラー『学問と現実』(1912)などを手がかりに、当時のドイツ知識人たちと漱石が共有していた心性についても考察するつもりである。

[研究発表]要旨③

村上春樹の〈アメリカ〉

  ―『やがて哀しき外国語』、あるいは「人はなぜ走るのか」をめぐって―

                            塩谷昌弘(盛岡大学


 村上春樹『やがて哀しき外国語』(1994)は、約2年半にわたるアメリカ滞在の経験を記したエッセーである。このエッセーは、村上の日本への「コミットメントの予告」(今井清人)であるとか、江藤淳の反復(大塚英志)だといった指摘があるが、こうした指摘はこのテクストの複雑さを視野に入れたものではない。というのも、このエッセーはもともと初出の段階では「人はなぜ走るのか」というタイトルであり、さらに初出→単行本→文庫本と改稿が加えられているからである。初出タイトルからは〈アメリカ〉と〈走ること〉を接合させようとしていたことがうかがわれるが、それが明確に語られるわけではない。〈走ること〉については、村上の『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007)を想起することもできる。本発表は、こうした改稿や他のテクストとの連環を起点にして、村上春樹の〈アメリカ〉の様態を探り、その上で源泉学(ティーゲム)の視点から、村上文学における滞在記、旅行記について検討してみたいと考えている。

[研究発表]要旨④

小川洋子と『アンネの日記』 ―「薬指の標本」『猫を抱いて象と泳ぐ』など―

                          中村三春(北海道大学


 小川洋子(1962-)の創作活動における原点の一つとして『アンネの日記』(1942-1944、1947出版)のあることが知られている。だが、それはいかなる原点なのか。
 「初めて『アンネの日記』を読んだ時、私は彼女と同い年の十三歳だった。小説を書きはじめ、作家となり、その間もずっと日記を読み続けてきた」と、小川は2000年開催の「アンネ・フランク展に寄せて」(『博士の本棚』所収、2007・7)において述べている。その言葉の実証として、小川はアムステルダムのアンネ一家の隠れ家を訪問した旅の記録である『アンネ・フランクの記憶』(1995・8)を発表している。「わたしは今でも生きて、言葉の世界で自分を救おうとしている。そのことをアンネ・フランクに感謝したい気持ちでいる」と同書で吐露するほど、アンネの占める位置は大きい。
 アンネ・フランク(1929-1945)は、ナチスの追及を恐れ、二年間に及びアムステルダムの隠れ家で暮らした。日記に描かれたのは、このような事情から余儀なく自己を監禁下に置いた少女の生活である。そして小川文芸における主要な人物の境囲とは、紛れもなくこのような自己監禁にほかならない。
 だが、アンネ、またサルトル安部公房、大江における監禁状況と、小川におけるそれとは大きく異なっている。小川の人物は、あたかも監禁下に自分を置くことを望んでいるかのようだ。「薬指の標本」(『薬指の標本』所収、1994・10)の「わたし」は、弟子丸氏の標本室に自ら封じ込められることを願い、『猫を抱いて象と泳ぐ』(2009・1)のリトル・アリョーヒンは、チェス人形「リトル・アリョーヒン」の内部に隠れないとチェスを指すことができない。このような監禁の持つ文芸的な意味とは何か。本発表では、小川がアンネから受け継ぎ、変異させた要素の幾つかを確認してみたい。

[ワークショップ] 企画趣旨

テーマ《近代日韓トランスカルチャーの諸相を考える》

             コーディネーター・司会  梶谷崇(北海道科学大学)


 今回のワークショップのテーマは、月並みな表現、わかりやすい表現を用いるならば近代における日韓文化交流ということになるだろう。しかし、テーマタイトルにはあえて「文化交流」という文言は用いていない。
 「日本文化」、「韓国文化」といったような一国名を背負った文化同士の「交流」という観点は、この時代にはあまり意味をなさないだろう。なぜなら支配—被支配という関係性においては、互いの文化を紹介し、理解し合うといったような今日頻繁に用いられるような「文化交流」いう状況は、国家政策的な視点からでなければ、なかなか想像できないものだからである。むしろ、文化の担い手たちは日本と朝鮮(あるいはその他の植民地地域)という複数文化を前に、それらの文化に対しどのように接し、受けとめ、自らの創作に取り込んでいくのか、こういった問題に直面していたのではないだろうか。そしてそのような状況の中で、自らの文化的アイデンティティをどう保持していくのか。日韓の文化および文化の担い手たちは、以上のようないわば複数の文化が混交するような状況の中で、それぞれの作品や表現を新たに生み出していった、と考えるべきなのではないか。
 今回のワークショップでは、以上のような問題の捉え方のもと、「日本と韓国はかつてこのような文化交流をしていた」、あるいは、「両国文化の間でこのような困難を抱えていた」というような日本/韓国という二項図式は前提としない。また扱う時期も両国においてモダニズムが花咲き、多種多様な文化思潮が入り乱れた時期から、一転して戦争へと突入する中で人々の表現が大きく制限される1930年代から1945年の終戦に至るまでの15年間に焦点を絞る。そうすることで、個々の芸術家が複数の文化的状況の中で何をなしたのかに注目しつつ、その上で日本と韓国がどのように表象され、演じられ、消費されていたのかを、浮き彫りにしたい。以上が本ワークショップのねらいである。

[ワークショップ報告]要旨①

村山知義と「春香伝」   
                   韓然善(北海道大学大学院博士後期課程)

    
 1937年、演出家として活躍した村山知義は、朝鮮のことを日本人に紹介するため、ある作品の脚色を朝鮮人作家張赫宙(チャンヒョクジュ)に依頼する。それは、朝鮮古典作品の中でよく知られている「春香伝(チュンヒャンジョン)」である。「春香伝」は「パンソリ」(唱劇)系列の小説で、韓国文学史の中でも多く取り上げられている作品の一つである。唱劇をはじめとして、演劇、映画、オペラなど、現在も様々な形で紹介されている。
 1938年3月、新協劇団による『春香伝』(張赫宙脚色、 村山知義演出)は築地小劇場で上演され、大成功し、朝鮮ブームのきっかけとなったと言える。新劇「春香伝」を題とした座談会が何度も開催されており、雑誌『モダン日本』では、臨時増刊号として朝鮮版が発刊されるなど、「春香伝」ブームとなった。同年10月、新協劇団の『春香伝』は朝鮮に赴き、巡回公演を行い、成功した。しかし、劇の形式においては、台詞は日本語を使い、日本人俳優が演じ、村山の演出によって歌舞伎の雰囲気が加えられ、朝鮮ブームの裏面も見て取れる。
 ところで、当時「春香伝」というテクストは日本と朝鮮の作家らによって再生産されていたと言っても過言ではなかった。村山もそれに応じるように、『文学界』で「シナリオ「春香伝」」(1939年1月)を発表する。この創作は朝鮮人演出家柳(ユ)致真(チジン)の戯曲『春香伝』(1936)から影響を受けたというが、先行論では彼の創作活動について詳細に言及されてこなかった。本発表では、「春香伝」ブームをめぐって、帝国日本と植民地朝鮮の間で行き来した村山の活動を「シナリオ「春香伝」」から考察する。村山を帝国日本側の文化人といった政治性のみで断定するのではなく、彼のテクストに生成された朝鮮イメージを明らかにし、朝鮮と村山との〈文化交流〉をより総合的に見る。

[ワークショップ報告]要旨②

韓国モダニスト詩人たちにとっての〈日本〉 ―鄭芝溶、金起林、李箱のケース―

                            佐野正人(東北大学


 1920年代は、朝鮮と日本との間での人々の移動が急速に増加していく時期に当たっている。朝鮮から日本へ渡った朝鮮人の数は1923年に10万人を超え、1930年には298,091人と30万人に迫る勢いで増加を見せている。朝鮮人留学生の数も、同様にこの時期に急増し、1920年には828人だったのが1923年には1000人台に乗せ、2年後の1925年には2000人を突破、翌1926年には3,375人と急増しているのが見られる。
 このような朝鮮・日本間での急速な人流の拡大は、多様な経験の場としての<日本>を生み出したものと考えられる。労働者から留学生までの多様な階層の人々が<日本>を経験する中で、それまで政治的な色合いが濃かった<日本>での経験もまた多様な色合いを持った文化的体験としての意味合いを帯びていくようになる。
 本発表ではその中でも九人会というモダニズム詩人のグループのメンバーたちを取り上げ、彼らの<日本>体験のあり方を再考してみる。金起林(日本大学芸術学部、東北帝大英文科に留学)、鄭芝溶(同志社大学英文科に留学)、李箱(晩年に東京に渡航し、そこで短い一生を終える)はそれぞれ<日本>と深いかかわりを持ち、またそれぞれ独自のかかわりを持ったことで特徴的である。
 特に金起林が1936年に東北帝大の英文科に留学に行った時に、後輩でもあった李箱が強い嫉妬と羨望を見せ、「女に対する嫉妬とは比較することもできない」ような嫉妬を感じたと述べていることは印象的である。李箱自身その後まもなく、東京へと渡航し、そこで執筆活動をしながら短い一生を終えている。しかし李箱にとって東京は、期待したような近代的都市ではなく「表皮的な」近代が輸入されただけの都市として、深い失望を抱かせるものでもあったのである。
 彼ら3人のケースを再考することは、1920年代以降の多様化していった<日本>体験の意味を再考することにつながるものであり、「植民地ー宗主国」といった政治的なニュアンスからある程度自立したものとして<日本>体験があったことを示すことにつながるものと思われる。その意味で彼らの体験は現代的な意味に開かれたものでもあったのである。

[ワークショップ報告]要旨③

1940年代の日本画壇と「崔承喜」舞踊画をめぐって李賢晙(小樽商科大学
 戦前日本で活躍した朝鮮の舞姫崔承喜を表す様々な形容辞は、活躍の時期などにより、「半島の舞姫」「朝鮮の舞姫」または「世界の舞姫」「東洋の舞姫」など、しばしば異なるニュアンスで用いられていた。なかには崔承喜が自ら命名したものもあれば、新聞や雑誌などのマスコミが喧伝したものもある。植民地の芸術家として活躍した崔承喜が、日本の芸術家やメディアといった他者との関係の中で、自らの舞踊芸術を創り上げていった姿が示唆されているものと考えられる。こうした活動のなかで崔承喜は自分の舞踊を積極的に宣伝していく手段として、舞踊演目を絵画や彫刻などの美術作品として描かせ、展示していた。崔承喜が展開した舞踊芸術は、舞踊から美術へと新たなジャンルを生み出しながら、高い人気に支えられ戦前の日本文化のなかで謳歌されていたのである。
 崔承喜が日本で行った舞踊公演会で、今でも語り継がれている帝国劇場での二回の長期に亘る独舞公演は、舞踊演目から美術作品への転化と関連し検討すべき舞台である。まず、崔承喜の帝劇での二回に及ぶ長期独舞公演会が持つ意義は、崔承喜自らが目指す舞踊芸術を明確にし、それを長期独舞公演会という興行方式で披露し、大成功を収めた舞台であるという点にある。さらには、崔承喜舞踊画の制作時期が、1942年から1943年に集中し、その一つの結実として1944年の帝劇公演の際に、帝劇画廊で舞踊画が展示された点を合わせて考えると、上記の帝劇公演と、舞踊画の関係を切り離しては語れない。