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[ワークショップ]報告②

虚無的な「笑い」:愛と憎しみの双面神 村田裕和(北海道教育大学旭川校)


 アナキズム詩人萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』(1925 年)の中の代表作「日比谷」では、一人の男が「虚無な笑ひ」を浮かべながら高層ビルの谷間を「永劫の埋没」へと進んでいく。同詩集の別の詩「地震の日に」では、虐殺を思わせるような首や胴が「ころがつて笑つてゐる」。また、萩原恭次郎とともに詩雑誌『赤と黒』の仲間であった岡本潤は、戦後、『笑う死者』(1967 年)と名づけられた詩集を刊行していた。「虚無」や「死」は、なぜ「笑い」という相貌によって表象されるのか。アナキズム詩人たちにとって「笑い」とは何だったのだろうか。

 翻って思い起こせば、大逆事件以来、「無政府主義者」たちの不敵な笑みこそが、世人の恐怖と憎悪を引き寄せ、大衆の処罰感情を正当化してきたのではなかっただろうか。「笑い」は、「虚無」や「死」と近接し、一方では/だからこそ、人間の怒りや憎しみを解き放つ契機となるのかもしれない。戦時下、岡本潤とともに雑誌『文化組織』を刊行していた花田清輝は、「我々の笑は、〔中略〕双面のヤヌスのように、愛と憎しみの二つの顔を持つ」(「笑う男」1947 年)と説いていた。花田にとっての「笑い」(アリストファネス的笑い)は、秩序の破壊(ラブレー的な笑い)ではなく、秩序の再構成であり、感情のブレーキである。差異を含みながらも、こうした「笑い」は、安部公房のいう「恐怖の極限のイメージ」としての「笑う月」(1975 年)にまでつながっているのかもしれない。

 本発表では、アナキストたちの「笑い」を起点として、「虚無」「憎悪」「恐怖」など、一見「笑い」と対立的に捉えられるものとの衝突・同居から「笑い」の効能を考え直してみたい。