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[研究発表]要旨④

小川洋子と『アンネの日記』 ―「薬指の標本」『猫を抱いて象と泳ぐ』など―

                          中村三春(北海道大学


 小川洋子(1962-)の創作活動における原点の一つとして『アンネの日記』(1942-1944、1947出版)のあることが知られている。だが、それはいかなる原点なのか。
 「初めて『アンネの日記』を読んだ時、私は彼女と同い年の十三歳だった。小説を書きはじめ、作家となり、その間もずっと日記を読み続けてきた」と、小川は2000年開催の「アンネ・フランク展に寄せて」(『博士の本棚』所収、2007・7)において述べている。その言葉の実証として、小川はアムステルダムのアンネ一家の隠れ家を訪問した旅の記録である『アンネ・フランクの記憶』(1995・8)を発表している。「わたしは今でも生きて、言葉の世界で自分を救おうとしている。そのことをアンネ・フランクに感謝したい気持ちでいる」と同書で吐露するほど、アンネの占める位置は大きい。
 アンネ・フランク(1929-1945)は、ナチスの追及を恐れ、二年間に及びアムステルダムの隠れ家で暮らした。日記に描かれたのは、このような事情から余儀なく自己を監禁下に置いた少女の生活である。そして小川文芸における主要な人物の境囲とは、紛れもなくこのような自己監禁にほかならない。
 だが、アンネ、またサルトル安部公房、大江における監禁状況と、小川におけるそれとは大きく異なっている。小川の人物は、あたかも監禁下に自分を置くことを望んでいるかのようだ。「薬指の標本」(『薬指の標本』所収、1994・10)の「わたし」は、弟子丸氏の標本室に自ら封じ込められることを願い、『猫を抱いて象と泳ぐ』(2009・1)のリトル・アリョーヒンは、チェス人形「リトル・アリョーヒン」の内部に隠れないとチェスを指すことができない。このような監禁の持つ文芸的な意味とは何か。本発表では、小川がアンネから受け継ぎ、変異させた要素の幾つかを確認してみたい。