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[ワークショップ報告]要旨②

韓国モダニスト詩人たちにとっての〈日本〉 ―鄭芝溶、金起林、李箱のケース―

                            佐野正人(東北大学


 1920年代は、朝鮮と日本との間での人々の移動が急速に増加していく時期に当たっている。朝鮮から日本へ渡った朝鮮人の数は1923年に10万人を超え、1930年には298,091人と30万人に迫る勢いで増加を見せている。朝鮮人留学生の数も、同様にこの時期に急増し、1920年には828人だったのが1923年には1000人台に乗せ、2年後の1925年には2000人を突破、翌1926年には3,375人と急増しているのが見られる。
 このような朝鮮・日本間での急速な人流の拡大は、多様な経験の場としての<日本>を生み出したものと考えられる。労働者から留学生までの多様な階層の人々が<日本>を経験する中で、それまで政治的な色合いが濃かった<日本>での経験もまた多様な色合いを持った文化的体験としての意味合いを帯びていくようになる。
 本発表ではその中でも九人会というモダニズム詩人のグループのメンバーたちを取り上げ、彼らの<日本>体験のあり方を再考してみる。金起林(日本大学芸術学部、東北帝大英文科に留学)、鄭芝溶(同志社大学英文科に留学)、李箱(晩年に東京に渡航し、そこで短い一生を終える)はそれぞれ<日本>と深いかかわりを持ち、またそれぞれ独自のかかわりを持ったことで特徴的である。
 特に金起林が1936年に東北帝大の英文科に留学に行った時に、後輩でもあった李箱が強い嫉妬と羨望を見せ、「女に対する嫉妬とは比較することもできない」ような嫉妬を感じたと述べていることは印象的である。李箱自身その後まもなく、東京へと渡航し、そこで執筆活動をしながら短い一生を終えている。しかし李箱にとって東京は、期待したような近代的都市ではなく「表皮的な」近代が輸入されただけの都市として、深い失望を抱かせるものでもあったのである。
 彼ら3人のケースを再考することは、1920年代以降の多様化していった<日本>体験の意味を再考することにつながるものであり、「植民地ー宗主国」といった政治的なニュアンスからある程度自立したものとして<日本>体験があったことを示すことにつながるものと思われる。その意味で彼らの体験は現代的な意味に開かれたものでもあったのである。