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[ワークショップ報告]要旨③

1940年代の日本画壇と「崔承喜」舞踊画をめぐって李賢晙(小樽商科大学
 戦前日本で活躍した朝鮮の舞姫崔承喜を表す様々な形容辞は、活躍の時期などにより、「半島の舞姫」「朝鮮の舞姫」または「世界の舞姫」「東洋の舞姫」など、しばしば異なるニュアンスで用いられていた。なかには崔承喜が自ら命名したものもあれば、新聞や雑誌などのマスコミが喧伝したものもある。植民地の芸術家として活躍した崔承喜が、日本の芸術家やメディアといった他者との関係の中で、自らの舞踊芸術を創り上げていった姿が示唆されているものと考えられる。こうした活動のなかで崔承喜は自分の舞踊を積極的に宣伝していく手段として、舞踊演目を絵画や彫刻などの美術作品として描かせ、展示していた。崔承喜が展開した舞踊芸術は、舞踊から美術へと新たなジャンルを生み出しながら、高い人気に支えられ戦前の日本文化のなかで謳歌されていたのである。
 崔承喜が日本で行った舞踊公演会で、今でも語り継がれている帝国劇場での二回の長期に亘る独舞公演は、舞踊演目から美術作品への転化と関連し検討すべき舞台である。まず、崔承喜の帝劇での二回に及ぶ長期独舞公演会が持つ意義は、崔承喜自らが目指す舞踊芸術を明確にし、それを長期独舞公演会という興行方式で披露し、大成功を収めた舞台であるという点にある。さらには、崔承喜舞踊画の制作時期が、1942年から1943年に集中し、その一つの結実として1944年の帝劇公演の際に、帝劇画廊で舞踊画が展示された点を合わせて考えると、上記の帝劇公演と、舞踊画の関係を切り離しては語れない。