宮澤賢治の心象スケッチ集『春と修羅』(大正 13・4)所収の「永訣の朝」は、妹の死をめぐる挽 歌として、人口に膾炙している詩篇である。この著名な詩について改めて考えるために、翻訳を参 照する。周知の如く賢治の作品は多様な言語によって精力的に翻訳が行われてきており、「永訣の 朝」に関しても少なからぬ数の翻訳が発表されている。それら複数の翻訳テクストを視野に入れて、 その原詩としての「永訣の朝」に再考を加えることにしたい。
翻訳研究に於いては基本的に、原文への忠実さ、正確さという 〈等価性(equivalence)〉 の原理が 考察の基軸に据えられる。しかしながらとりわけ詩と呼ばれる言語表現に関して、その語彙の意味 論的コノテーションや音韻的、韻律的価値等の全てを含んだ等価物を異なる言語の中に見出すこと は到底あり得ない。そうした中でなされる詩の翻訳は、〈等価性〉を評価の基準とする限り、常に翻 訳不可能性という事態を実証する営みと見做される他ない。そうであるならば、詩の翻訳について 考える時、原詩との間の隔たりやずれ、歪みを寧ろ自明の前提と見做す観点も必要となろう。原文 からの隔たりを前提とした上で、そうした翻訳の側から原文の表現のあり方自体を照らし出す、──本講演は、そうした目論見の下、翻訳を経由するという迂路を敢えて辿りつつ「永訣の朝」を読 み直す試みである。