オンラインでの参加について
今大会は、会場と、オンライン会議用ソフト「Zoom」を使用したオンラインでの開催を併用する形式で行います。
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【要旨】研究発表4
村上龍『69 sixty nine』論 ──J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』との比較をめぐって──
クラヴェツ・マリヤ (東北大学大学院生)
1987 年に発表された村上龍の『69 sixty nine 』は 1969 年の長崎県佐世保市を舞台にしており、 学校のバリケード封鎖、フェスティバルの開催等作者の実体験を基にした自伝的な青春小説と考え られる。占領のテーマを中心とした基地の街の小説としても論じられている。作中では、アメリカ や全世界からの音楽、映画、文学作品等のタイトルが登場し、時代の雰 囲気や歴史性を構築していると言える。しかし、当時の日本でのアメリカ人の在り方や日本人によるアメリカ文化との接触は考察の対象になるにもかかわらず、アメリカ文学との比較研究が殆ど行われていない。
本発表では、村上龍の『69 sixty nine 』と J.D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951) 比較の前提に指摘する。まずは、双方の作品中の少年の主人公のイメージを構築している文学理論 背景を確認する。特に、「オール・アメリカ ン・ボーイ」と「アメリカン・アダム」として解釈さ れている『ライ麦畑』のホールデン・コールフィールドのイメージは『69 sixty nine 』の主人公 ケンのイメージに重なるところに焦点を当てる。次に、プロット、表現、語りやモチーフ(主に遅 刻のモチーフ)など多数のレベルでの共通点に着目し、今後の比較研究の展望について考察してみ る。比較分析では、原文とともに、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』(1984)のテクストも取り扱う。
【要旨】研究発表3
日本語に翻訳されたブラジル文学とその影響に関する考察
Chaves Goncalves Pinto, Felipe(筑波大学大学院生)
本発表は、ブラジル文学の日本語翻訳に関する問題を考察することを目的とし、2022 年から 2023 年にかけて行われたブラジル独立 200 周年記念事業の一環として、在東京ブラジル大使館の支援のもと出版された 5 冊の翻訳書と、リマ・バレット(Lima Barreto, 1881-1922)の短編小説「クララ・ドス・アンジョス(Clara dos Anjos)」の 2022 年に発表された独立翻訳を分析対象とする。後者の翻訳は、大使館支援による翻訳とは異なり、出版社やブラジル政府等による制約を受けず、翻 訳者が経済的に独立して実施したものである。本発表の論点は、日本語へのブラジル文学翻訳の主 要事例を列挙し、ブラジル文学の作品選定における編集上の傾向を明らかにすることである。さら に「クララ・ドス・アンジョス」の翻訳について詳細な分析を行い、独立翻訳において採用された 翻訳戦略を検討する。これらの分析を通じて、日本における翻訳を介してブラジル社会がどのよう に認識され、表象されているかについて考察する。
本発表の提案する重要な論点は、翻訳によって選定された作品や分析された傾向に基づくインフラ的に偏ったカノンの導入が、ブラジルにおける制度的な暴力の再生産に繋がる可能性を含んでお り、その結果として、不平等、沈黙化、周縁化の再現を引き起こす危険性があるという点である。
【要旨】研究発表2
翻訳における原文使用率について ──西川満訳『西遊記』を中心に──
井上 浩一(東北大学大学院国際文化研究科GSICSフェロー)
ある翻訳を紹介しようとする場合、「どれを」「どのくらい」「どのように」翻訳したかを述べ れば、ある程度その翻訳の特徴を伝えることができるだろう。「原文使用率」は、その中で原文を 「どのくらい」翻訳したのかを明示するための数値である。
発表者は以前、西遊記の江戸時代の翻訳書『通俗西遊記』『画本西遊全伝』について原文使用率 を調査し、翻訳独自の問題点はあったものの、おおよそ底本をどの程度翻訳し、どの程度削除した のかを明らかにすることができた。
そこで、西川満訳『西遊記』研究の一環として、同様の方法でその原文使用率を算出しようとし たところ、これまでには見られない問題点が表れた。しかし、実はこの問題点こそが、西川訳が「ど のように」なされたのかの一端を示すのではないかと考えられる。
本発表では、原文使用率算出の実際の手順を示しつつ、そこでどのような問題が発生し、問題点 から何がわかるのかについて述べたい。
【要旨】研究発表1
機会詩としての宮澤賢治短歌
──歌壇における『ゲーテとの対話』受容と関連させて── 塩谷 昌弘 (盛岡大学)
宮澤賢治の短歌は、佐藤通雅によって「賢治短歌」と称され、近代短歌史には位置付けられないような特殊な短歌として評価されている。しかし、この「賢治短歌」のなかでも、歌歴の最晩年あ たる「大正十年四月」の連作群は、岡井隆をはじめ、他の歌人たちからの評価は低い。
例えば「かゞやきの雨をいたゞき大神のみ前に父とふたりぬかづかん」といった伊勢参宮詠など、 類想歌の多い、「パターン」の歌として否定的な評価がなされている。佐藤通雅は、宮澤のこの時期の国柱会への接近から、これらの歌群を「法華文学」の試作として理解しようとしているが、宮澤の西域ものの童話などに比べると、あまりにも形式的な歌であるように思われる。
本発表では、同時期に翻訳され、歌壇でも受け入れられたという、エッカーマンの『ゲエテとの対話』(1921)におけるゲーテの「機会の詩」(Gelegenheitsgedicht)という言葉を、手がかりにし て、宮澤の短歌の機会詩性を取り上げてみたい。短歌から、詩・童話への移行期でもあった「大正十年」の宮澤の、特殊ではない、いわば平凡な「パターン」の短歌から、その文学の一側面を捉え 直してみたい。
【講演2】要旨
宮澤賢治の心象スケッチ集『春と修羅』(大正 13・4)所収の「永訣の朝」は、妹の死をめぐる挽 歌として、人口に膾炙している詩篇である。この著名な詩について改めて考えるために、翻訳を参 照する。周知の如く賢治の作品は多様な言語によって精力的に翻訳が行われてきており、「永訣の 朝」に関しても少なからぬ数の翻訳が発表されている。それら複数の翻訳テクストを視野に入れて、 その原詩としての「永訣の朝」に再考を加えることにしたい。
翻訳研究に於いては基本的に、原文への忠実さ、正確さという 〈等価性(equivalence)〉 の原理が 考察の基軸に据えられる。しかしながらとりわけ詩と呼ばれる言語表現に関して、その語彙の意味 論的コノテーションや音韻的、韻律的価値等の全てを含んだ等価物を異なる言語の中に見出すこと は到底あり得ない。そうした中でなされる詩の翻訳は、〈等価性〉を評価の基準とする限り、常に翻 訳不可能性という事態を実証する営みと見做される他ない。そうであるならば、詩の翻訳について 考える時、原詩との間の隔たりやずれ、歪みを寧ろ自明の前提と見做す観点も必要となろう。原文 からの隔たりを前提とした上で、そうした翻訳の側から原文の表現のあり方自体を照らし出す、──本講演は、そうした目論見の下、翻訳を経由するという迂路を敢えて辿りつつ「永訣の朝」を読 み直す試みである。
【特集 賢治学+比較文学】企画趣旨
近年の宮澤賢治研究において、その研究が「宮澤賢治研究」であることの特殊性について無 自覚な研究は少ないはずである。かつて荒川洋治は「宮沢賢治論が/ばかに多い 腐るほど多い/研究には都合がいい それだけのことだ」(詩「美代子、石を投げなさい」)と書いたが、 宮澤賢治に言及しようとするとき、その研究に対して、こうしたまなざしが注がれていること に無自覚ではいられない。
岩手大学人文社会科学部宮澤賢治いわて学センターは、毎年『賢治学+』を刊行し、広範な研究の拠点となっている。今大会では同センターと共催を通して、改めて、比較文学の見地から、ただ「都合がいい」だけはない宮澤賢治文学の様態を検討してみたい。
同センターからは P.A.ジョージ氏による「注文の多い料理店」に関して、東北支部からは佐 藤伸宏氏による「永訣の朝」に関する講演をいただく。