村上春樹の〈アメリカ〉
―『やがて哀しき外国語』、あるいは「人はなぜ走るのか」をめぐって―
塩谷昌弘(盛岡大学)
村上春樹『やがて哀しき外国語』(1994)は、約2年半にわたるアメリカ滞在の経験を記したエッセーである。このエッセーは、村上の日本への「コミットメントの予告」(今井清人)であるとか、江藤淳の反復(大塚英志)だといった指摘があるが、こうした指摘はこのテクストの複雑さを視野に入れたものではない。というのも、このエッセーはもともと初出の段階では「人はなぜ走るのか」というタイトルであり、さらに初出→単行本→文庫本と改稿が加えられているからである。初出タイトルからは〈アメリカ〉と〈走ること〉を接合させようとしていたことがうかがわれるが、それが明確に語られるわけではない。〈走ること〉については、村上の『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007)を想起することもできる。本発表は、こうした改稿や他のテクストとの連環を起点にして、村上春樹の〈アメリカ〉の様態を探り、その上で源泉学(ティーゲム)の視点から、村上文学における滞在記、旅行記について検討してみたいと考えている。