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[研究発表①]

[研究発表]〈12:35 〜 13:20〉

谷川俊太郎の英訳併録詩集―『メランコリーの川下り』と『minimal』をめぐって―」

中村三春(北海道大学

谷川俊太郎の『minimal』(2002.10、思潮社)は、谷川の詩と、William I.Elliottおよび川村和夫によるその英訳とが配置された詩集であり、その先駆は詩集『メランコリーの川下り』(1988.12、同)であった。鼎談「新詩集『minimal』をめぐって」(谷川俊太郎・田原・山田兼士『谷川俊太郎《詩》を語る—ダイアローグ・イン・大阪 2000〜2003』、2003.6、澪標)において、谷川は、『minimal』の英訳は二人による訳をいわば監修して、「この主語は『I』じゃなくて『You』なんだよとか」と助言したことを明らかにしている。山田兼士はこのことを踏まえ、「英訳が注釈になるという機能」があり、同詩集巻頭の「襤褸」を例として、原詩では曖昧な箇所が、英訳では自分の読み方とは違って明確化されることを説明する。それに対して谷川は、「作者とは違う読みの方がいい場合もあるんですよね」と答えている。

 自らもレオ・レオニ作品やマザー・グース詩集、ピーナッツ・シリーズの翻訳者である谷川の詩集は、エリオットと川村によって多く翻訳され、特に集英社文庫版の『二十億光年の孤独』(2008.2)や『62のソネット+36』(2009.7)にも両者による英訳が収録され、普及している。ただしここで考えたいのは、初版刊行時から既に英訳が併録されることの意味についてである。通常、翻訳は解釈であるから、原文と異なることは意外ではない。だが、たとえば「襤褸」の場合、一読して必ずしも相容れるものではない原詩と訳詩とが、著者のいわば監修の下に最初から同居している。これは、総体として見れば、詩の表現に意図して雑音を混入させる手法なのではないか。その時、詩や詩集の様式・性格は、そうでない場合と比してどのようにとらえるべきなのか。

 発表者はこれまで、谷川の詩集におけるアプロプリエーション(流用)やシミュレーション(模造)さらに触発の手法から、その現代芸術としての性質を探ってきた。ここではその延長線上に、英訳併録という構成が生む接続の様態について、検証を試みたい。